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書くということ

October 15, 2019 at 10:22 am, No comments
日本語に不可欠なのは「書くこと」だ!、とワープロが登場して暫く後、ワープロやパソコンに対する文化的抵抗として、詩人・作家らのなかから反対運動が20世紀の終りに起った。

もうしかし社会は SNS と YouTube だらけだ。「書くこと」はなく「タッチすること」が中心で、指先が触れるのは液晶の表面とせいぜいキートップとマウスのボタンくらいになってしまった。

書くことは、肉筆のばあい筆に墨をふくませて筆先を紙にふれながら筆を持つ五つの指は筆先を意識しながら指同士が協調して運筆することになるのだろうか。ちょっとだけ書道部にいてやめてしまったのでなんとも言えないが肘からさきの運動というか身体を動かしての運筆というかそこのところの洗練度もたいせつな気がする。

ところが、キーボードのタイピングは、5本の指をばらばらに運指しないといけない。親指は右も左もほぼスペースキーの表面に触れている程度で、ローマ字入力のときに変換!とちょっと意識を高めてポンと叩くことになる他はあんまり他のキー上空に移動させない。人差し指は、左はFを、右はJキーのトップを軽く触れている程度だ。

これだけでも、ずいぶんと書くことと手指の動きが違う。

ローマ字入力とカナ入力はずいぶん異なるが、これまでにカナ入力の練習と実践をあるていどやった体験からいえば見かけ上、ローマ字とカナは入力のやり方が違うが、脳と手指の信号制御については本質的な相違がないように思える。制御でたいせつなのは、人間の動作は間違いをするために、それを修復しなければならない。その修正場面での、バックススペースキーや、確定のエンターキーや、カーソル移動キーなどについては、どちらも共通している。また、普通のキーボード奏者というか操作者は、句読点を打つまでにも何回か変換ミス・タイプミスすることがあり、書いてる文字を眼で認識していて、修正したくなってしまうことが結構あるからだ。


ここまで思いつくままに書いていて、ふと、仏教繋がりで「写経」に思いあたった。お寺は、実践修行として写経をすすめているのは、書くということのなにかを知ることができるのだろう。

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